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襄公
襄公(じょうこう)は東アジアに於いて諸侯に与えられる謚の一つ。
秦の襄公 (秦)(? - 紀元前766年、在位紀元前777年 - 紀元前766年)
斉 (春秋) 斉の襄公 (斉)(姜諸児 ? - 紀元前686年、在位紀元前698年 - 紀元前686年)
宋 (春秋) 宋の襄公 (宋)(微茲甫 ? - 紀元前637年、在位紀元前651年 - 紀元前637年)
晋 (春秋) 晋の襄公 (晋)(姫驩 ? - 紀元前621年、在位紀元前628年 - 紀元前621年)
鄭の襄公 (鄭)(姫堅 ? - 紀元前588年、在位紀元前605年 - 紀元前588年)
魯の襄公 (魯)(姫午 紀元前576年 - 紀元前542年、在位紀元前569年 - 紀元前542年)
襄公 (宋)
襄公(じょうこう、? - 紀元前637年 在位紀元前651年 - 紀元前637年)は中国春秋時代の宋 (春秋) 宋の君主。姓は子。名は茲父(茲甫)。桓公 (宋) 桓公の子。春秋五覇の一人に数えられることがある。
紀元前651年に宋公の位に就く。襄公には目夷と言う庶兄がおり、襄公は位を目夷に譲ろうとしていたが、目夷自身に拒否され、宋公になったあとに目夷を宰相の地位に就けた。
即位直後の喪が明けていない時から斉 (春秋) 斉の桓公 (斉) 桓公が主催する会盟に参加し、その後も度々会盟に参加した。襄公は私事よりも礼を重視する理想主義者であった。
紀元前643年に桓公が死去。斉国内では後継を巡って内乱状態になる。これに対して襄公は会盟を開いて曹・衛・?ら小国を引き連れ、かつて宋に留学していた縁がある太子の昭を推し立てて斉へと赴き、内乱を収めて昭を斉公とした。これが孝公 (斉) 孝公である。更に会盟に来なかった滕の宣公 (滕) 宣公を捕らえた。
襄公 (晋)
襄公(じょうこう、? - 紀元前621年8月15日)中国春秋時代の晋 (春秋) 晋の君主(在位:紀元前628年 - 紀元前621年)。姓は姫 (姓) 姫、諱は驩。文公 (晋) 文公の子。
即位後まもない紀元前627年、孟明視率いる秦軍が攻め込んできたが、果敢な襄公は白い喪服を墨で黒く染めて出陣し、淆の戦い 淆の地でこれを打ち破った。喪服を染めた理由はよく分からないが、喪服を脱ぐわけには行かないが、白い喪服のまま出陣するのは不吉であると思って黒く染めたものと思われる。喪服に黒服を着る習慣はここから発生したという説もある。しかし、即位後、わずか7年で没した。
中国史の人物 しようこう しんの
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